その日、私はいつものように朝4時半に起きて、ヒルサイド・アヴェニューの放送準備をしていた。
ゲストの音源を試聴したり、朝刊に目を通し、この1週間に出た数誌の週刊誌の記事をチェックし。
テレビは早朝のニュース番組をつけっぱなしにして。
確か日本テレビの番組だったと思う。

関西で大きな地震があったという第一報。なのに、神戸の震度はなかなか表示されなかった。
あまりの揺れに震度計が作動しなかったのだ。
やがて、かわたれどきを経て明るくなった中で、ヘリから空撮の映像を見た時の衝撃。
ただただ言葉を無くす光景に震撼とするばかり。
この世の終わりを想わせた。

今日、私は どんな放送をしたらいいのだろう…
私に いったい何ができるのだろう…
当時、兵庫県のFM局はネットしていな
かったので、FM徳島の長縄アナウンサーと生電話で繋ぎ、
ニュースデスクのTFM大橋アナウンサーが随時、臨時ニュースで刻一刻と変わる被災状況を伝え。
午後1時から始まった3時間の生放送時間の中で 既に犠牲者の数は千人を超えた。

未曾有の災害に、ラジオの伝え手の無力さを感じながら口をついて出る言葉も虚しく、
届くFAXは「○○さん、ご無事ですか?」という安否確認。
それを必死に紹介しながら、しわぶきひとつすることも憚られ、まるで葬儀に隣席している心持ちでマイクの前に居た。


その夜は、実は、全国のFM局の社長達が集まっての会議と懇親パーティーが予定されており、私はその後半の司会役を仰せつかっていた。
震災の被害の大きさに、当然、歌舞音曲は中止、粛々と食事をするだけの会となったのだが、あの通夜のような雰囲気は忘れられない。
 

やがて、
心に灯をともす明るい曲をかけてください。
明るく喋ってください。
というリクエストが届くようになる。

義援金を呼びかけ、防災を訴え、助け合う気持ちが大きな輪となって広がっていき、有事の際のネットワークの大事さ、ラジオの果たす役割の大きさを 実感していった。

それは、新潟で起こった中越地震の時も、そして東日本大震災時へと、受け継がれていくことになる。
 

あれから20年。
 

救助活動のありかた、政府、地方自治体、自衛隊の活動、海外からの支援の受け入れ方、ボランティアの在り方、避難所・仮設住宅・復興住宅について、耐震の建造、建築基準法の改正。
そして、戦後日本の経済成長の中で整備されてきたインフラの、災害によって初めて気付く老朽化や不備。

それらを考え直し、再構築するきっかけにとなるのが、皮肉なことに震災などの大災害。

今を生きる私達が、次代を生きる子らに これから残していくべきものは、有形無形に数限りなくある。
絶望することなく、臨んでいかなくては。。。
 

そういえば2003年、「YAJIKITA on the road」の取材で訪れた神戸の街は、見事な復興を遂げ、人々は一様に優しかった。
辛さを知っているからこその、優しさのように感じた。
それまで、ちょっと気取った街のイメージだったそこは、人情味あふれる 大好きな町となった。(写真は、その時のものです)

阪神淡路大震災で犠牲となられた方々のご冥福を あらためて
心より お祈り申し上げます。

 

148Moko 128saxMoko

162ShortR 160Butaman

166Yaki Toyokuni2 

163Tada